居合
抜ける抜けないというその差は
抜くという動作が消えているかどうかであると思ってまず間違いない。
そう理解しています。
普通は太刀を鞘から抜くという動作をするから抜けるのですが、これは居合としての内容の全くない動作です。
抜くという動作を消して抜き終える。
そのためには正しい型を正しく授けていただくほかには無いと思います。
それでも、そこから稽古を重ねて、居合の居合たるところを表現するにいたる人はほんの一握りなんだろうと思います。
かく言う私も、抜く動作を消して抜き終えることなど今のところ夢のまた夢。
自分の居合稽古風景を録画したものを見てみると絶望的に居合の内容が無いわけでして、なにやら眠気をもよおす次第。
かれこれ十年、相変わらずの風景を思うとふと気が遠くなります。
眠気の吹き飛ぶような稽古風景をいつかは録画してみたいとは思います。あきらめはしません。
絶望することには慣れてます。
いい加減慣れてしまいました。
よくわかる動き出し。
いつまでも揺らぎ続けて止まらない構え。
そこに、ありありと有り続ける体。
動いてはいけないところがいつまでも動いていて、働くべきところは働かず、そんな自分にあきらめはしても、稽古することはやめられません。
独特な負荷がかかるこの稽古、しないといろんな歯車が噛み合わない感じで落ち着かなくなるんです。
なんとかして内容のある一本を抜こうと重ねる時間がほかの何にも変えられない幸せを私にくれます。
その様子を録画して見てみれば前述のとおりなのですが。おかげで寝つきの良くないときも知らないうちに寝入ってしまいます。
なにやらただの愚痴のようになってしまいました。
こころざしを高くもちたいものです。
構えを厳密に。
正中線を確立して。
体の、全てを消して。
いつ動き出したかわからない動き方で。
腰をどこまでも低く落として。
どこにも自分をぶつけず。
目指すは、高空を吹き抜ける一陣の風。
柄に手のかかる時は斬り終えている。
そんな境地にいつか辿り着いてみたいと、思います。
目というのはいい加減なもので、消えている動作も見えたと認識します。
確かに消えていると認識するには正しい師につくこと以外にはあり得ないと思います。
早くやったら消えて見えるというのは誤解だろうなと思います。
ゆっくりと、ありありと見せるように抜いても、消えている動作は消えているのです。無いものは、無い。とがめようが無い。
武術の武術たるゆえんがここにあるのだと思います。