居合人稽古録

滅私没我

 

でなければならないと

我が身をそこにあるものとして認識しては、ならないものとされてみても

我が手が柄にかかるのをそこに柄があるとおぼえてはならないといわれても

 

それができないから稽古するのであって

いきなりやれといわれてできたら名人達人続出して価値は暴落の一途をたどって滅ぶのみです。

 

座構えをとって、とれていないから、さらに座るのであり、

 

浮き身と言っても浮き身になってないからなんどでも浮き身を追い求めるのであり、

 

体捌き、鞘の送りといってもそれが間に合っていないことがわかるから、もう一度、さらにもう一度と、やり直しはきかないというのが大前提の世界の末端で努力しようともがくのであり、

 

そんなもがいている時間がこの上なく貴重に思えるから、今日も稽古をするのです。

 

そんな時間を生活の中に持ち続ける人を居合人と呼ぶのだとおもい

人種に関わりないこの居合人であることがこんにちのわたくしの定義のひとつであることがわたくしのもてる数少ない誇りとなっています。

 

願わくば、行ったり来たりする稽古内容の積み重ねの中で、かつていたところに戻ってきたと思うとき、かつての場所より僅か薄紙一枚でも上にいられますように、そう思う今日この頃です。

 

稽古できるこんにちただいまに、感謝する次第。

 

願わくば明日もと思う次第です。