やわら

武術のおおもと

 

それが、やわら、柔術、コシノマワリ、小具足

 

つまりは私というものが触れる対象の中心線で私自身の実体を処理する技術。

それが、やわら、柔術、コシノマワリの本質。

そう思っています。

 

その極意は、いつでも、全ての方向に倒れていけること。

 

つまり、前に出ていっているどの瞬間にも後ろにさがれるし左右どちらにも変化できる。

後ろにさがっているどの

瞬間にも前に出られるし左右に変化できる。

 

もちろん、全方位ですからどんな角度の斜めにも。

 

ええ、頭が痛くなりますね。

 

自分の体でひとつなにか、たとえば、腕を上げるとか下げるとか、脚を一つ動かす、その全てが、相手の正中線を捉えて、自分ではなく、相手の正中線の中に入ってその相手の正中線からはみださないようにして自分の動作を行う。

 

それが基本のこととしてできるようになることが、柔術、やわら、コシノマワリの世界に入ったということの証明なのだと、思っています。

 

当然、たやすいわけはなく、相手の伎倆があがるほどに困難を極め、だからこそ無限に高みを目指すことができる。

 

万人にすすめることのできる、唯一の武種が、これなのだろうと思います。

 

その本質を形骸化せず、今日まで伝えている、そんなところがあるならば、なんとしても次世代、次々世代まで伝えねばなんとしても、もったいない。

 

世界遺産などというひまがあるなら人類遺産をとっとと定めて守らねばならず、定めるならば筆頭はなにをおいてもこれだと思います。

 

そう、思います。

 

可能性として、柔術、やわら、コシノマワリ、の本質さえきちんと伝えられているなら、剣術兵法、居合、どちらもその本質を、たとえ一度失伝してしまったとしても、完全に近い形で復元できる。のではないか、と思っています。

 

武術の大元。だからです。

 

柔術が完全に失伝してしまって、剣術居合の中に柔術の要素も全くなくなってしまったら、もう、おしまいだと思います。抜け殻だけ。だれもその価値を認めなくなって滅ぶだけ。

 

誰か天才が現れるまで、少なくとも、柔術の本質だけは伝え続けねばならない。そう思います。

 

いつか、必ず、人間の本質に、具体的に肉薄する学問体系として、古流武術はその価値を見直されるときが来る。そう、思っています。

 

正しい姿勢というのを、なぜそれが正しいのか、段階をへて証明しながら伝えていく具体的方法としてこれほど確実な体系は無い、と思っています。

 

段階が、必要なのです。

 

一度に、究極を伝えられなどしない以上。

 

学問。美術。身体精神運動の究極。宗教。そのきわまり。そこにいたる階段の

はじめにあるもの。

 

 

なくてはならないものとして、必ずおさめるべき教養のひとつとして、数えられる時代が必ず来る。

 

その時が来るまで、残す価値のあるものを、なんとしても残さねばならない。

 

私にできることをやりつくしていきたい。

 

そう思っています。

前を向くちからのもと

世界的感染症大流行のもと

なかなか出席できずにいた稽古会には

とうとう全く出席できなくなり

 

はや 幾星霜

 

 

これまでにいただいた型の稽古を仕事と生活との合間にできるかぎりはしてはいますが

 

先生はじめ稽古せずにはいられない

あの方この方とお会いできないのは

時としてあまりにさびしく

つらく思うこともしばしばです

 

そんな中

ひとり稽古にいそしむために

ひそかに願うことがあります

この胸にいだく夢があります

 

かつて日本有数のテーマパークで聞いたことをおぼえています

 

夢があれば希望が生まれる

希望があれば勇気が生まれる

 

聞いていてなるほどと思いました

 

ひとり稽古にいそしむそれをささえるみなもとの大きなひとつに

今ならば順番でいけば次にいただける型はこれだなと思いつつ

その型の稽古ももちろんしてみたいと強く思いつつ

本来

居合が誰にでも稽古を許されはしないことが当たり前だったころならば

この型にすすむはずだった

 

今とは違う

その型をいただけるようになりたい

 

その願い

その夢が

いまの私を稽古にかりたててくれます

 

かなわなくとも全くかまいません

 

稽古しているから

昨日は知らなかったなにかに今日気づくことができます

 

時々なんだかくたびれてしまうこともあるけれど

それでも無上極限を求める時間を日々わずかでも持てることは

それでしか得ることのできない幸せを私に与えてくれます

 

いつの間にか進むべき道を大きく外れてしまっていないことを祈りつつ

 

今日も僅かの時間僅かの本数

自分の一本を抜きたいと思います

 

こんな私の駄文に目を落としてくれるあなたに幸あれ!

 

居合

抜ける抜けないというその差は

抜くという動作が消えているかどうかであると思ってまず間違いない。

そう理解しています。

 

普通は太刀を鞘から抜くという動作をするから抜けるのですが、これは居合としての内容の全くない動作です。

抜くという動作を消して抜き終える。

そのためには正しい型を正しく授けていただくほかには無いと思います。

それでも、そこから稽古を重ねて、居合の居合たるところを表現するにいたる人はほんの一握りなんだろうと思います。

かく言う私も、抜く動作を消して抜き終えることなど今のところ夢のまた夢。

 

自分の居合稽古風景を録画したものを見てみると絶望的に居合の内容が無いわけでして、なにやら眠気をもよおす次第。

かれこれ十年、相変わらずの風景を思うとふと気が遠くなります。

 

眠気の吹き飛ぶような稽古風景をいつかは録画してみたいとは思います。あきらめはしません。

絶望することには慣れてます。

いい加減慣れてしまいました。

 

よくわかる動き出し。

いつまでも揺らぎ続けて止まらない構え。

そこに、ありありと有り続ける体。

動いてはいけないところがいつまでも動いていて、働くべきところは働かず、そんな自分にあきらめはしても、稽古することはやめられません。

 

独特な負荷がかかるこの稽古、しないといろんな歯車が噛み合わない感じで落ち着かなくなるんです。

 

なんとかして内容のある一本を抜こうと重ねる時間がほかの何にも変えられない幸せを私にくれます。

 

その様子を録画して見てみれば前述のとおりなのですが。おかげで寝つきの良くないときも知らないうちに寝入ってしまいます。

 

なにやらただの愚痴のようになってしまいました。

こころざしを高くもちたいものです。

 

構えを厳密に。

正中線を確立して。

正中線微塵も崩さず。

体の、全てを消して。

いつ動き出したかわからない動き方で。

腰をどこまでも低く落として。

どこにも自分をぶつけず。

 

目指すは、高空を吹き抜ける一陣の風。

 

柄に手のかかる時は斬り終えている。

 

そんな境地にいつか辿り着いてみたいと、思います。

 

目というのはいい加減なもので、消えている動作も見えたと認識します。

確かに消えていると認識するには正しい師につくこと以外にはあり得ないと思います。

早くやったら消えて見えるというのは誤解だろうなと思います。

ゆっくりと、ありありと見せるように抜いても、消えている動作は消えているのです。無いものは、無い。とがめようが無い。

武術の武術たるゆえんがここにあるのだと思います。

居合人稽古録

滅私没我

 

でなければならないと

我が身をそこにあるものとして認識しては、ならないものとされてみても

我が手が柄にかかるのをそこに柄があるとおぼえてはならないといわれても

 

それができないから稽古するのであって

いきなりやれといわれてできたら名人達人続出して価値は暴落の一途をたどって滅ぶのみです。

 

座構えをとって、とれていないから、さらに座るのであり、

 

浮き身と言っても浮き身になってないからなんどでも浮き身を追い求めるのであり、

 

体捌き、鞘の送りといってもそれが間に合っていないことがわかるから、もう一度、さらにもう一度と、やり直しはきかないというのが大前提の世界の末端で努力しようともがくのであり、

 

そんなもがいている時間がこの上なく貴重に思えるから、今日も稽古をするのです。

 

そんな時間を生活の中に持ち続ける人を居合人と呼ぶのだとおもい

人種に関わりないこの居合人であることがこんにちのわたくしの定義のひとつであることがわたくしのもてる数少ない誇りとなっています。

 

願わくば、行ったり来たりする稽古内容の積み重ねの中で、かつていたところに戻ってきたと思うとき、かつての場所より僅か薄紙一枚でも上にいられますように、そう思う今日この頃です。

 

稽古できるこんにちただいまに、感謝する次第。

 

願わくば明日もと思う次第です。

 

居合とは

居合

 

についてそれがどのようなものであるか

ネットならすぐ教えてくれるだろうと思い検索するも、調べども調べども納得のいく内容のものにめぐりあうことが全くできないので、仕方なくここに私見を述べる。

 

居合とは。

 

居合道などは近代、鉄砲などの兵器がしっかりハバをきかせたあとに出てきた金持ちの娯楽に過ぎず、さりとて居合術といって中世より侍が身につけるべき武芸の一つに数えられていたころから、その実用性には嫌疑をかけられていたものである。

 

帯刀から抜刀する所作に極限、無上のそれを突き詰めようとする人はいにしえより、東西を問わずいたことは、武人その他の人びとの置かれた治安環境から疑うことのない事実と認識できる。

 

この認識を共有できない方とお話しするヒマは今は無い。

 

居合術の中興の祖はわが日本では、林崎甚助公とされている。

 

公のいうに、

居合とは

ヤワラとヘイホウのアイダ

イマ、イチダンのクフウあるべきとて

 

作り出したものだそうで

漢字にすれば

 

柔と兵法の間

今、一段の工夫有るべき

 

と、なり

武術修行を、愛好することを人生の寄る辺と、しているわたくしにしてみれば

 

全ての武術のおおもとになる柔術、やわら

それをもとに得物を、小武器の脇差やジッテなどから刀はもちもんナギナタや槍の全てを扱う剣術、兵法

 

それらを術としてまとめあげたそれぞれ柔術、剣術。やわら、兵法。

 

それらがこの世に表出したモノよりさらに上になにかある!

 

それを表してみせたのが、居合。

というのです。

 

なので、居合だけできて柔や兵法ができないわけはない。

 

柔も、兵法もできるのに居合はできないのはごく当たり前のこと。

 

現代に生きる私どもにはほぼ理解不能

それを遊びで真似ている。それを見ることだけができる。

 

そうでなく本当に居合を知る方ならば沈黙している。

 

それが居合だと思います。

 

想像してほしいのですが

剣を上段に構えまさに今切らんとする自分自身に、座して帯刀のままでそれよりさらに早く対応できる状態を常に維持する自分をつくれるか?

これ以上無い、難事。

わざわざ他人を対象にしなくていい。

 

それが居合。

 

いくらそれらしきことをしてみたところで、ヤワラも身に付いていないような者には、兵法のヘノジも身に染み付かぬ者には、時間の無駄。怪我の元にすぎません。まして、居合なら言うまでもない。

 

正しい師を人生をかけて探すことが全てです。

 

巡り会えないことが当たり前です。

 

刀がなければなにも出来ないのは居合ではありません。

 

自分が、この世界に、どのように、存在するか。それを学ぶのが武術。それを学ぶ者を、柔術より、剣術より、術のほうから選ぶ。それが居合です。

 

滅私没我。

 

それをこの上なく容赦なく厳しく求められる修行体系としてあるのが居合。

 

強いとか弱いとか

勝つとか負けるとか

生きるとか死ぬとか

 

そんなことをはるかに越えたところに成立している

 

そんな武術の世界

その世界の最高峰

それが

居合

 

わからないひとにはわからない

わかるひとはいつでもほんの少しいるかどうか

それだけ難しい

だから理解もされない

だから武術として成り立つ

 

それが居合

 

もしあなたが居合ができると思っているとして

あなたがあなたの体を

少しでも自覚できるとしたら

もう、あなたのは居合ではない

 

もし、あなたが、あなたの腰の刀をそこにあるものとして、感じられたら、それはもう居合ではない。

 

柄に手をかけるとき、柄を感じられたら、それはもう居合ではない。

 

はじめからしまいまでなにもない

それで各型をつかえるようになっていくことが居合の修行

 

はじめから途方もなく

型が進めばそれはさらなるものとな

 

以上、私見を述べた。

 

このような世界を知れたこと、

このような世界を創り出した先人のいることを幸福に思う

 

と同時に、あまりに居合についてこれだけ、情報の飛び交う環境下で、極めて貧しいものにしか触れられないことに触発されて、あくまで個人として、師の許しも得ぬままに述べた。

 

愛好する対象を得られたことは無上の幸福である

たとえ道なかばになろうとも

道のあることを知れたことは

幸せである

 

あなたにもそうなってもらえたらいいなと

思う