居合とは

居合

 

についてそれがどのようなものであるか

ネットならすぐ教えてくれるだろうと思い検索するも、調べども調べども納得のいく内容のものにめぐりあうことが全くできないので、仕方なくここに私見を述べる。

 

居合とは。

 

居合道などは近代、鉄砲などの兵器がしっかりハバをきかせたあとに出てきた金持ちの娯楽に過ぎず、さりとて居合術といって中世より侍が身につけるべき武芸の一つに数えられていたころから、その実用性には嫌疑をかけられていたものである。

 

帯刀から抜刀する所作に極限、無上のそれを突き詰めようとする人はいにしえより、東西を問わずいたことは、武人その他の人びとの置かれた治安環境から疑うことのない事実と認識できる。

 

この認識を共有できない方とお話しするヒマは今は無い。

 

居合術の中興の祖はわが日本では、林崎甚助公とされている。

 

公のいうに、

居合とは

ヤワラとヘイホウのアイダ

イマ、イチダンのクフウあるべきとて

 

作り出したものだそうで

漢字にすれば

 

柔と兵法の間

今、一段の工夫有るべき

 

と、なり

武術修行を、愛好することを人生の寄る辺と、しているわたくしにしてみれば

 

全ての武術のおおもとになる柔術、やわら

それをもとに得物を、小武器の脇差やジッテなどから刀はもちもんナギナタや槍の全てを扱う剣術、兵法

 

それらを術としてまとめあげたそれぞれ柔術、剣術。やわら、兵法。

 

それらがこの世に表出したモノよりさらに上になにかある!

 

それを表してみせたのが、居合。

というのです。

 

なので、居合だけできて柔や兵法ができないわけはない。

 

柔も、兵法もできるのに居合はできないのはごく当たり前のこと。

 

現代に生きる私どもにはほぼ理解不能

それを遊びで真似ている。それを見ることだけができる。

 

そうでなく本当に居合を知る方ならば沈黙している。

 

それが居合だと思います。

 

想像してほしいのですが

剣を上段に構えまさに今切らんとする自分自身に、座して帯刀のままでそれよりさらに早く対応できる状態を常に維持する自分をつくれるか?

これ以上無い、難事。

わざわざ他人を対象にしなくていい。

 

それが居合。

 

いくらそれらしきことをしてみたところで、ヤワラも身に付いていないような者には、兵法のヘノジも身に染み付かぬ者には、時間の無駄。怪我の元にすぎません。まして、居合なら言うまでもない。

 

正しい師を人生をかけて探すことが全てです。

 

巡り会えないことが当たり前です。

 

刀がなければなにも出来ないのは居合ではありません。

 

自分が、この世界に、どのように、存在するか。それを学ぶのが武術。それを学ぶ者を、柔術より、剣術より、術のほうから選ぶ。それが居合です。

 

滅私没我。

 

それをこの上なく容赦なく厳しく求められる修行体系としてあるのが居合。

 

強いとか弱いとか

勝つとか負けるとか

生きるとか死ぬとか

 

そんなことをはるかに越えたところに成立している

 

そんな武術の世界

その世界の最高峰

それが

居合

 

わからないひとにはわからない

わかるひとはいつでもほんの少しいるかどうか

それだけ難しい

だから理解もされない

だから武術として成り立つ

 

それが居合

 

もしあなたが居合ができると思っているとして

あなたがあなたの体を

少しでも自覚できるとしたら

もう、あなたのは居合ではない

 

もし、あなたが、あなたの腰の刀をそこにあるものとして、感じられたら、それはもう居合ではない。

 

柄に手をかけるとき、柄を感じられたら、それはもう居合ではない。

 

はじめからしまいまでなにもない

それで各型をつかえるようになっていくことが居合の修行

 

はじめから途方もなく

型が進めばそれはさらなるものとな

 

以上、私見を述べた。

 

このような世界を知れたこと、

このような世界を創り出した先人のいることを幸福に思う

 

と同時に、あまりに居合についてこれだけ、情報の飛び交う環境下で、極めて貧しいものにしか触れられないことに触発されて、あくまで個人として、師の許しも得ぬままに述べた。

 

愛好する対象を得られたことは無上の幸福である

たとえ道なかばになろうとも

道のあることを知れたことは

幸せである

 

あなたにもそうなってもらえたらいいなと

思う